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言葉・音楽・好奇心

なぜ?どうして?何冊も文章読本を買ってしまうんだろう?という素朴な自分への疑問

文章読本』(谷崎潤一郎)は10代の終わりに読んだ。川端康成三島由紀夫の『文章読本』は、そのあとに目を通した。下のブログに挙げた3冊。『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』(絓秀実・渡部直己)、『一億三千万人のための小説教室』(高橋源一郎)、『書きあぐねている人のための小説入門』(保坂和志)以外にも多くの文章読本系の著作を手にとった。

文章読本 (中公文庫)

何冊、読んだのかは覚えていない。『物語の体操』(大塚英志)、『小説作法ABC』(島田雅彦)などや、翻訳ものなら『小説の技巧』(デイヴィッド・ロッジ)、『ナボコフの文学講義』(ウラジーミル・ナボコフ)……。キリがない。

なぜ、何冊もの文章読本系を読んだのか……それは「小説」というものが分からなかったからだ。文章をどこまで理解しているのか、まったく自信がなかった。それが本音だ。不安だからこそ読みまくった。

res-c.blog.jp↑ の補足ではなく、およそ○○年前の文章をそのままコピペする

自分が惹かれていく文章や小説の観察

目的はふたつ。
惹かれる素になる部分を分析・究明する
それを咀嚼し自分にフィードバックさせる

はじめに、全体を俯瞰する

一歩引いた場所から作品全体を見るような感じで全体のバランスを見る。起承転結などの流れはもちろんのこと、章の数や余白などをチェックする。実はこの段階で全体像をしっかりと頭の片隅に入れておくことが重要。物事全般に言えるのかもしれないけれど、あまり細部にこだわりすぎると判断を誤る例がよくある。

次に、対象へと少し近づく

全体は見えないけれど、大きな章単位であれば見渡せる位置までやってくる。ここでは文章の固まりとしてのバランスを見る。漢字とひらがな、地の文と会話、などの割合や一文の長さ、改行の回数など、気になる点はすべて脳みその項目に記述しておく。大ざっぱな文章の特徴を知ることができる段階だと認識している。

さらに、対象の内部へと侵入する

これからが本番。およそページ単位ぐらいまで視野をせばめる。作品のなかでも特に自分の琴線に響いた部分を中心にすえ、その前後を含めて入念に見る、見る、見る。最初はあくまでも表現上のテクニックを見る。比喩や意識の流れ、風景描写など。

文章は目で追うだけでなく、心のなかで意識的に音読してみたりする。純粋に音として韻を踏んでいたりする場合もあるが、それ以上に気にするのは語尾だ。日本語でいちばん気になる一文一文の語尾をどう処理しているかを確認する。

また、作品によっては登場人物などの主義、主張に惹かれることもある。そういう場合には主義、主張がかいま見える言葉を抜き出してみたり、背後にある、もしくは内面にある根幹を模索してみたりする。

絶対の順序や短縮された法則は存在しない

チェックする項目の順序は寄り道が基本だ。迷ったら直感に頼る。留意するのは気になった事柄に遭遇したら立ち止まることだ。徹底的に、思考を限界まで回転させる。妥協は許さない。これまでの知識すべてを活用して文書や言葉を手のひらにのせ、観察する。

もちろん、的はずれな誤読もあるだろう。気にしない。感覚を優先させる。現代国語のテストではないのだから、それでいい。正答へと行き着くために歩いているのではないからだ。あるのは作者が意図する、意図しないに関係なく表象に浮かんだ文章だ。思考にリミッターをかけず、思いのままに走らせることが大切なんだと思う。

読む側の視点、書く側の視点

これは微妙だ。つくるヒトとして、つくる瞬間は書く側の視点、そして一度文章として形あるものにしてしまうと次は読む側の視点になる。でも、自分の文章を何度も読み返すとき、それを普通は推敲と言うのか……その視点は交互に、もしくは激しく変化していく。

観察しているときも同様だ。リスナーとしての自分と演奏者としての自分が入れ替わり立ち替わり、あれこれと意見を言い放っていく。双方をうまく同居させることができればいいのだが、うまくはいかない。それほど人間ができてない。もしくはそれほど狂気に近寄っていない。

目的地は曖昧模糊な自分

あくまでも過程を重視する。文章から醸し出される物質をできるだけ多く咀嚼し、自分のなかのフィルターへ通すことに意味がある。確かにすべての文学は過去の模倣かもしれない。それでも自分のなかから出てくる言葉は自分の言葉でありたい。世界を自分の言葉で表現したい。そんな願望が自分の根底にある。

最初は表現上のテクニックにこだわっていたことが、しばらくすると消えてしまう。言葉や文章が最初の印象と違って見えたり、ずっと奥、自分の記憶や経験に喚起したりして、場合によっては脱線し、暴走する。無理に戻ってこようとは思わない。思いのままに思考のベクトルを野放しにする。すでにこの時点でまな板にのせたテクストは単なる導火線に過ぎず、内的世界で思考はうごめく、うごめく、うごめく。

そして、最終的に行き着く先は自分だ。そこ以外に行き着く先はない。思考が自分のなかから出てくる限り、そのなかから出られない限り、行き着く先は自分。

まとまっていない、まとめ

ここまでの文章は垂れ流しだ。一切の校正をしていない。そのままをコピペした。『文章読本』と関係があるのかも分からない。簡単に言うと、こういう感じなんだろうけどね。

「あっ、この文章、かっこいい」→「なんで、この文、かっこいいんだろう?」→「なぜ、この文をかっこいいと思うんだろう?」→「この文をかっこいいと思う自分はどこにあるんだろう?」→「この文をかっこいいと思う自分はどこから来たんだろう?」→ぐるぐるぐるぐる……

ひとつ前の文章、最後の句点は、なし。気分として、なし。

 

yosh.ash

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