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トルーマン・カポーティの初長編『遠い声 遠い部屋』と短編集『夜の樹』に収録された「ミリアム」

最初に読んだトルーマン・カポーティの小説は『遠い声 遠い部屋』。10代の終わり頃だった。『遠い声 遠い部屋』の原題は『Other Voices, Other Rooms』。「Other」が「遠い」と訳されている。その後に『夜の樹』を買った。「ミリアム」の読後感は、これまでに体験したことがないものだった。未だに、その瞬間を覚えている。動けなかったんだよね。次のページをめくることが出来なかった。

res-c.blog.jp↑ の補足というより脱線した殴り書き

トルーマン・カポーティ

2冊の『夜の樹』

手元にある『夜の樹』は翻訳者が違う。単行本が龍口直太郎で、文庫本が川本三郎だ。両方とも発行は新潮社。もうひとつ異なる点がある。ものすごく重要だと思うのだけれど、収録されている作品と、その順序が変わっている。タイトル名が微妙に違うのは翻訳者の範疇だ。他の作家でも似たようなことはよくある。でも、順番が変わると短編集全体のイメージにも影響するよね。元の短編集では、どうなんだろ?

個人的には単行本のほうが好みだ。ポイントは「ミリアム」の位置。トップバッターは似合わない。短編集の真ん中あたりでガツンと読者へ向けて静かな空砲を胸に打つほうがいい。まあ、先に単行本を読んだせいもあるんだけどね。アナログ盤で言えばA面の最後に収められた曲という感じかな。その例えでいくと「無頭の鷹」はB面の1曲目になる。

何にせよ、短編集の順序って、大切だよね。サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』あたりなんかも、そう。今なら、龍口直太郎、川本三郎のどちらも読むことが出来る。もし、時間があれば、両方を読み比べて欲しい。日本語に翻訳された作品それぞれはどちらも捨てがたいからね。ぜひ、ぜひ。

夜の樹 (新潮文庫)

夜の樹 (新潮文庫)

 

『遠い声 遠い部屋』は父親で「ミリアム」は母親?

『遠い声 遠い部屋』で「Other」を「遠い」と訳したのは絶妙だと思う。「遠い」は、ありふれた日常にある言葉だ。小難しい単語でも何でもない。普段の会話にでも使う。「遠い」には色もないんだよね。だから、小説のタイトルを見てもアッサリとした印象を受ける。

でもね。小説を読み進んでいくと「遠い」という言葉に対して今までにない色が見えてくる。言葉への観念が広がるって読書の楽しみメニューのひとつになると思うんだけど、『遠い声 遠い部屋』はその仕掛けが成功している好例だ。英語圏での「Other」が、どのように扱われているのか知りたいんだけどね。残念ながら、ネイティヴの英語感覚は皆無だし。

ここからは誤解を恐れずに言い切る。『遠い声 遠い部屋』は父親探しの小説だ。主人公は少年期のカポーティの投影。アメリカ文学父親探しは、よくあるテーマだ。文学だけではなく映画にも「またか……」と飽きるぐらい出てくる。いわゆる定番ってやつ。『遠い声 遠い部屋』は繊細で幻想的な空気に包まれている。そんな空気が主人公の内面を描いていた。

少しだけ深読みをしてみる。『遠い声 遠い部屋』の父親探し。実は、主人公のなかにある父親の幻影を探しているような気がする。現実感のない父親と言っていいのかな。アメリカ文学父親探しって、ベクトルが外に向かっていない。ひたすら自己の内面を探求する物語だ。この世に生を受けてから思春期までの過去に縛りつけられているように思えるんだよね。

その観点で「ミリアム」の行間まで読んでみる。『遠い声 遠い部屋』が父親探しなら、「ミリアム」は母親探しだ。カポーティにとって、母親は美化された、やはり幻なんだろうなと感じるんだよ。心の奥底に投影された母親を探すための小説。そう考えれば、ラストの不思議な読後感にも頷ける。まあ、自己の内面にどのような陰鬱があったとしても、それを作品として成立させた点がカポーティの凄さなんだけど。

遠い声遠い部屋 (新潮文庫)

遠い声遠い部屋 (新潮文庫)

 

 トルーマン・カポーティは少年期を抜けられなかった作家だ。「恐るべき子供たちアンファン・テリブル)」とは上手い表現だ。カポーティ自身は最後まで「子供たち」のひとりであったような気がしている。もしも、中編『ティファニーで朝食を』があんなふうに映画化されず、新しい文学を切り開いたとされる『冷血』を書いていなかったら、もっと多くの作品を残していたような気がしてならないんだよ。

 yosh.ash